ふたりで奏でた旋律は、今もまだ胸を震わせる。

「まったく!ほかの奴は出て行けなんて、ふざけたセンコーだぜ!」



静まりかえった廊下で一人、俺は大きく独りごちた。
10代目が補習を受けることになり、当然俺は、ご一緒しますと教室に残ったわけだが、教師に務めの邪魔をされた。
補習を受ける10代目が、教師の下手くそな教え方でお困りだったり分からないところがあったらお助けせねばと思っていたのに。
ボスをサポートするのが右腕の役目。それを。
10代目までやんわりと退室の命令を下すものだから仕方なく出てきたけれど。



「あーくそっ」



足を振り上げて、壁を思いきり蹴ろうとした。
考えなしとはまさにこのことだ。壁に向かって勢いのついた片足は、ギプスでガチガチに固定された方で。
うわやべえ、と気付いてどうにか寸前のところで止めることができたのは奇跡に近い。自分の反射神経と運動能力に感謝だ。
せっかく治りかけているものをまた悪化させるところだった。危ない。
浮かせた足を地に下ろすと安堵の混じった溜め息が洩れた。



「………つまんねぇ」



俺は吐き捨てるように呟いて、大事なボスが残る教室から離れるのをやっぱり惜しく感じながら、再び階段へ向かって歩き出した。
一時間近くどうやって時間を潰そう。
こういう時は屋上で煙草をふかすかごろ寝でもするに限るのだけれど、あいにく今日は小雨が降っている。
屋上には行けないし、さてどうしよう。















適当な場所を求めて校舎を歩き回っていると、ふと目に付いた教室があった。
音楽室。
そう言えばここにはピアノがあるな、なんてことが頭を過ったから足を止めてみた。
ほかに都合のいい場所も思いつかないし、足を引きずって徘徊したところで結局またここに戻ってきそうだと思ったから、ひとまずは、と。
キィ、ほんの少し扉を開けて中を覗く。
静かだ。人の気配はない。
さっきより扉を開けて全体を見渡すと、案の定誰もいなかった。一日の授業は終わったのだから当たり前と言えば当たり前のことだけれど。
俺は迷わずピアノの方へ向かう。
どこかの席にただ座ってるだけでもよかったけれど、どうせ十分も経たないうちに暇を持て余すだろうから。
何かしているほうが時間が過ぎるのも早い。それに。
ピアノは好きだ。
鍵盤に指を置いて力を加えれば、ポーンと心地良い音。
城にあったピアノならもっといい音が出るんだけれど、学校の授業で使うものだからここでは贅沢は言わないことにする。
ピアノを触っていると、亡き母のことを思い出す。優しい笑顔が印象的だった。
尊敬するボスの太陽のような笑顔に似ているようでちょっと性質が違う。あの人はほわほわとした春の日和の柔らかな陽射しを思わせた。
あの笑顔を思い浮かべると胸がとても温かくなる。こんな気持ちで弾くピアノは案外嫌いじゃなかった。むしろ好きかもしれない。
幼い頃母親に教えてもらって以来、ずっと弾き続けている曲を弾いて、懐かしさにほんの少し故郷へと思いを馳せて。それからお気に入りの曲をいくつか奏でて。
だいぶ上達したな、と自分で自分を褒めながら鍵盤を叩いて、すっかり気分は上々だった。
ふと、顔を上げた拍子に、何かが通り過ぎて行くのが視界の隅に見えた。
なんだ、と思わず手を止めて、それが来た方を見遣れば、窓が一つだけ握り拳程度開いていた。
教室の鍵ならまだ見過ごせるとして、窓の施錠はちゃんとしないと物騒だろう。いくらなんでも。
隙間から飛び込んできたのは何だったのか。ほっといてもどうってことはないが、正体を確かめておくべきか。
俺は続きを弾くのをやめて、侵入したものを確かめるため立ち上がる。
面倒事はごめんだから本当に確認するだけ。



「ヒバリ」



聞こえた音声は、人間の喉を通して出されるものとは異なっていた。けれど、何より驚いたのは。
振り返ろうとした瞬間耳が捕らえたその声、その言葉に、一気に目が覚めるような感覚がした。
身体を反転させれば黄色い小さな鳥が目に入った。
小鳥は、ヒバリヒバリ、と何度も鳴きながら羽を羽ばたかせていた。そうして、くるくると飛び回る中心には、よく知る漆黒。



「かすかにピアノの音がしたから誰かと思えば、まさか君だったとはね」



聴かれた。
嗤われる。そう思った。



「さっき弾いてた曲はなんて言うの?」
「は?あ、え?えーと、…モーツァルトのロンド」



あれ?嗤わねえ。
俺にピアノなんて似合わないと言わないのか?
毎度毎度人の背後から現れる奴だ。曲名を訊いてくるなんて、ピアノに興味でもあるんだろうか。
呑気にそんなことを考えながら動かない漆黒を見つめた。



「なにか言いたげだね」
「べ、別に」



俺は顔を背けた。聴かれたのがよりにもよって雲雀とは。なんとも居心地が悪すぎて、まともに顔も合わせられない。



「ああ、そうか。僕に嗤われると思ったんだ?君とピアノは不釣り合いだと言われるとでも思ったかい?」



言い当てられて俺の視線はますます下を向く。
うるせえ、と言い返すのは簡単だった。だけど、できなかった。
だって、雲雀の雰囲気が、いつもと違うから。
殺気が、ないから。



「その様子じゃ図星みたいだね」
「…っ!……あーそうだよっ!だからっ、……」
「だから?」
「…だから、なんで……てめぇは嗤わねえのかな、て…」



普段と違う調子に具合の悪さを感じつつ、チラ、と雲雀の顔を見れば、俺には何も読み取れない闇のような黒瞳が真っ直ぐに俺だけを見つめていた。



「…君ね、僕だっていいと思えるものには素直に感動するよ」



ゆっくりと口を開いて、そう言う。



「君の演奏を嗤うわけないだろう」



雲雀はただ静かに、依然俺を見据えたまま。



「雲雀、それって…」



俺のピアノを褒めてくれているのか。
もし、そうなら。



「ところで、君はいつまでここにいるつもりなの?」
「え!?あ、ああ!10代目の補習が終わる頃には出て行くよ!」
「それって何時?」
「5時」
「とっくに過ぎてるけど?」



雲雀の視線を追って天井近い壁のほうに目を向ければ、丸い時計が時刻を教えていた。
短針は五。長針は二。五時十分。



「ああーっ!!マジだ!過ぎちまってるっ」



補習に付き合うことは断念したけれど、日々の送り迎えは欠かせるわけにはいかない。
10代目が教室を出てくる頃にはきちんと廊下で待っていようと思っていたのに。



「早く行きなよ。僕もここの戸締りを確認してほかを見回りしなくちゃいけないからね」
「お、おう」



俺は雲雀の脇の出入り口へと急ぐ。
さっさと教室まで戻らなくちゃいけないのに、足のせいで思うように歩けなくて焦ってしまう。それだけじゃない。足のほかにも、なんだか落ち着かなくて。余計に。
立ち位置から出口までの距離をずいぶん長く感じた。
雲雀は、何も言わなかった。
横を通り過ぎる時、訊こうかとも思ったけれど。
‘いいと思えるものには’。
あれは、きっと俺のピアノを褒めてくれたんだろう。そう勝手に思うことにした。
はっきり言われたわけじゃないし、雲雀が俺を褒めるとか、そんなまさかの話なんだけれど、言い方がそういう風にしか聞こえなかったから。
雲雀の反応は予想外だったし、驚いた。心は落ち着かないけれど、不思議と嫌な気はしない。
俺の、この妙な気分はなんだろう。



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