cap.W 【ピアニスト】

透明な条がいくつも伝い落ちる。小一時間ほど前に降りだした雨は、本格的などしゃ降りとなって窓ガラスを濡らしていた。
同盟ファミリーの幹部、レナート・ギッティの訃報は、ボンゴレにもショックを与えたが、一部の間で一時的に噂になった程度で今では本部内もすっかり本来の空気に戻っていた。
転落による事故死と公表されたギッティの死の真相を知らない本部の者達は、当然大きく騒ぎ立てることもなかった。麻薬のまの字も話題に出た様子もなく、俺の命令で動いていた部下も口を閉ざしていた。
ffが原因と分かったのは、山本と山本の部下が話しているのをたまたま俺の部下が耳に入れたからだった。



「屋敷の使用人から聞いた話らしいから間違いはないと思うぜ?」



ソファーに腰かける男が、テーブルの上のカップへと手を伸ばす。その動きを目で追って、男がそれを口元に運ぶのを見届けると、俺も目の前に置かれた白い陶器へ手を伸ばした。
器の中の黒色の飲料をひとくち口に含み、ほっと小さく息をついて窓へと視線を向けた。
止みそうにない雨。
10代目の執務室を出た俺を待ち構えていたのは、呼びに行こうと思っていた山本で、俺が会いに来ることを予測していたのか顔を合わせるなり、じゃあ行くかと隣を歩きだした。
ひとまず熱いコーヒーを二つ部屋に用意させて、人払いをした頃に雨足が激しくなり始めたのだったか。
今ちょうど、山本が部下から聞いたという話の内容を、山本の口から一通り聞き終えたところだった。
ギッティの当時の様子。彼の‘異変’。



「転落の二時間前には怒鳴り声…か」
「ああ。廊下にまで響くほどの音量で、使用人も驚いたそうだ」



ギッティという男は、とても物静かな男で、年齢なりの知識と経験があり、最高幹部に相応しく知性も備えていると評判を得ていた。俺が知る限り、理性的な人物だった。
俺は再び視線をコーヒーカップへと戻す。揺らぐ水面に彼の家族やファミリーの動揺を見つつ、彼が死ぬ間際に残した言葉を頭の中で繰り返した。



「…ピアニスト。ギッティは間違いなくそう言ったんだな?」
「ん?…ああ、奴がテラスから転落する直前の言葉か。部下からは、そうだと聞いてるぜ?なんならその執事を呼んで、獄寺も直接聞いてみるか?」
「いや、お前ンとこの情報だ。聞き間違いを疑ってるわけじゃねえ」
「まあ、薬物のせいで在るはずのないものが見えたんだとは思うけどな」
「幻覚にしても、だ…」
「獄寺?」



独り言のように洩らした俺を、山本は不思議そうな顔で眺めていたが、俺は返事を返すでもなくしばし思い耽っていた。
私用で使う携帯電話の着信音が鳴ったことによって意識を目の前に戻した俺は、携帯の画面に表示された文字を瞳の端に捉え、おもむろに通話ボタンを押すと電話機の向こうの相手にかけ直すと伝え電話を切った。
それが合図かのように山本がソファーから腰を上げる。ギッティの事故状況については概ね知ることができたし俺からはもう特段聞く事もないと山本を見送っていると、ふと物言いたげに目を合わせるものだから促してみれば口を開いた。



「雲雀か?」
「…違う」
「そか。あいつ、もうそろそろ帰ってくるんだってな」
「らしいな」
「こんな時だけど獄寺にはうれしいニュースだよな。お前寝る間も惜しんで仕事してるみたいだけど、雲雀も心配するだろうから無茶はほどほどにな」



そんな台詞を残して扉の向こうへと姿を消す。まったく、一言余計なんだよ。ちょっと遠慮がちだった言い始めの反応はどこへ行った。
雲雀からの電話であれば、どんなにうれしかったか。
着信の相手は、跳ね馬だった。ここ最近連絡が増えたキャバッローネのボスには、今回の件についてまだ詳細は伝えていない。当然と言えば当然。こちらもたった今山本から詳しく聞いたばかりなのだから。
情報はボンゴレから外に出てはいない。事故の原因、真相など他者がやすやすと知り得はしない。いかにキャバッローネがボンゴレと強い繋がりを持っていたとしても。ある程度の情報共有が許されているのは、互いの利益以上に長年の付き合いで培った信頼であったが、あくまでもボス同士が容認している範囲内の事。
10代目が良しと言わないかぎり例え守護者であってもどんな些細な事も口外不可なのだ。
今回に限ってではないが、一組織の人間の死など気に留めるほうが珍しいと言える。とくにマフィア界においては。
跳ね馬が今回の事をボンゴレの誰かから聞いたとは考えにくかった。
独自で調査することは十分可能だが、ディーノという男は普段飄飄としているくせに、さすがファミリーのボスというべきかボスの名を背負うだけあって頭も勘も良い。ギッティについてもぴんと来たんだろう。
少し考えれば分かりそうなものではある。ただ、突然死に不審を抱いてもffを知らなければこんなに早く俺の携帯が鳴ることもなかっただろうし、まず、あの知性と理性を兼ね備えた聡明な男が、という疑念を振り払うのはいかにキャバッローネのボスでも困難だったとは思うが。
俺だって信じられない思いでいる。まさか、と。ギッティがffを使用していたという確たる証拠は今のところ無いが、状況から推察すれば百パーセントに近い黒だ。
かねてより全同盟ファミリーに仮面の男に関する情報提供を呼びかけていたが、当たりはおろかクレメンティの名すら出てきはしなかった。彼は仮面の男――ファウストと接触し、クレメンティにおいても何か知っていたのだとしたら。
協力要請があったにもかかわらず、ギッティはあえて事実を隠していたということになる。つまりそれは、ボンゴレに対する裏切り行為ととられてもおかしくはない。
これでギッティが所属するファミリーの立場も危ういものになった。
ともあれ今はすべて憶測の域を出ていない。だが、ボンゴレに関わる者から犠牲が出たのは真実。
はじめから猶予などなかったが、時間を無駄には出来ない。とは言っても、ギッティの身辺からも何も得られはしないだろう。事故にも犯罪性がないとして解剖にも回さず片付けられている。
ff、幻覚作用が強く現われているとなると、LSDに近いものなのかもしれない。
しかし妙だ。最期はみな別人のように変わり果ててしまっているというのに、何故誰も薬物に身体を蝕まれていたことに気付かない。そもそも死ぬ直前まで中毒症状が一切出ていないなんて。
何を意図して製造された薬なんだ。ファウストは誰の命を受けて動いているんだ。クレメンティなどというファミリーの名も歴史も存在しない。奴の名前自体がそうであるように、クレメンティの者ということもまた狂言か。
霧系のリングを使うマフィアであることは掴んでいるんだ。クレメンティの名がダミーだとしても、奴が指している『あの方』が黒幕に変わりはない。
この際あの方がファミリーのボスかどうかはさておき、諸悪の根源だろうということは分かった。それが誰なのかを突き止めなければ、ffのすべては解決しないことも。
俺はデスクに置かれた携帯電話を取ると、飲みかけのコーヒーを置いたまま執務室の扉を閉めた。










「この間、ジャンを訪ねてきた人がいたよ」
「私を?どなたです?」
「社長の代理らしくてね、それがさ、社長は誰だと思うかい?ランドルフィだってさ!」



ピアノバーのマスターが、喜色を浮かべやや興奮気味に来訪者のことを語った。



「ランドルフィと言ったら、あのランドルフィだろう?ピアノも嗜むなんて、ああいう人種は趣味も多方面なのかねえ」



感心したように話す声を半ば流すように耳だけで聞きながら、脳に記録されている男を思い浮かべる。マスターが指す人物と、俺がいま思い描いた男はきっと一致している。
そもそも、イタリアで市民にまで知られているランドルフィと言えば一人しかいない。
春嵐・ランドルフィ。ファッションブランド『DUE・C』を創り出したデザイナー。思い当たる人間は彼くらいなのだが。



「あんたの噂を聞いて来たらしいんだけど、さすが目の付けどころが違うねえ。…もしかして疑ってるかい?名刺を置いて行ったよ。ほら」



惚けているせいで反応がないとでも勘違いされたのか、手の平サイズの白い紙が一枚俺の前に置かれた。
ランドルフィのロゴ、真ん中には『開発部長アルド・ストルキオ』と印字がある。一見して、本物かどうか分からない。こんなもの、偽造しようと思えばいくらでも出来る。
仮に偽物であった場合を考えて、それをこんな所で使用しても何の得にもならないという答えが即座に出たものだから、思わず胸の内で零した苦笑いを外に洩らしそうになった。
“ボンゴレファミリーの獄寺隼人”に使うメリットはあっても、“ただの一般人”に使うメリットは見出せない。
例えば、この来客がボンゴレに敵意を持っていたり、ボンゴレを陥れるために関係者へ近付く手段として工作したのなら頷ける。ここに立つ俺が、獄寺隼人だと知る者は限られた人間のみ。五本指で十分足りる程度だ。
一度別人に扮してしまえば、マフィアの匂いも振る舞いも誰にも感じさせないようにしてきた。ジャンと獄寺隼人が同一人物であることが他のマフィアや市民に悟られているはずがない。



「ジャンの演奏日じゃないと知ったら、また来ると言っていたよ。あんたの才能が広く知られていくのは我が事のようにうれしいし、雇い主としても鼻が高いよ」



プロでもないただのピアノ弾きの演奏が珍しいわけでもないだろうに。噂を聞き一目見たいと好奇心でもそそられたか。
グラスを磨きながら上機嫌に語るオーナーを横目に、名刺をそっとジャケットのポケットへしまった。



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