cap.V 【ファウスト】

「今日もお疲れさん。あんたのおかげで最近客足が増えたよ」
「お疲れ様です、マスター。私のおかげなんて、とんでもない。人が集まるのはマスターの人柄ですよ」
「いやいや、あんたの演奏目当てで来る客も大勢いるんだよ」
「それはありがたいことです」
「こっちも商売繁盛でありがたい。これからもよろしく頼むよ」



人の良さそうな小柄の中年男が、俺の目の前にウイスキーの入ったグラスを差し出した。
短く礼を述べ、受け取ったグラスに口を付ける。上品な味だ。さほど大きな店ではないが、良い酒を置いている。
二週間ほど前から、俺はこの店で働き始めた。街の中心に近いピアノバー。店員は、マスターと、バーテンダーがもう一人。それから、日替わりでピアニストを雇っている。
バーでの俺の役割は、もちろんピアノの演奏。俺が演奏するのは火曜日と金曜日。



「あんたにもう少し演奏日を増やしてもらえるといいんだがね…。あんたにも都合があるから仕方ない」
「すみません」



さすがに、これ以上日数は増やせない。情報収集のために必要と判断し、10代目の許可を得たが、ここに長時間拘束されているわけにもいかない。書類も事件も、待っちゃくれない。麻薬の出所、ファウストの正体、マフィアの失踪…やることは山積みだ。



「ごちそうさまでした」



氷だけが残ったグラスをカウンターに置いて、店を出ようと扉を開けたところで呼び止められた。振り返ると同時に何かを投げて寄越されて、上手くキャッチしたおかげで落とさずにすんだそれを、なんだろうかと見てみれば、オレンジだった。



「持って行きなよ。市場で押し売り同然に買わされたが、食べてみたら案外美味しくてね」
「ありがとうございます。では、おやすみなさい、マスター」
「ああ、おやすみ、ジャン」



夜更けすぎ、街が眠りにつきはじめる。昼間は気にもならない自分が鳴らす靴音が、人のいない夜の静かな通りではこうも違うのかと思うほど、歩くたびに音を響かせる。
今は、闇に溶け込む黒スーツではない。
聞き慣れない名前、少し窮屈な言葉遣い。だが、知れ過ぎた名前より、ずっと行動の自由がある。
求人広告を片手に、雇ってもらいたいと連絡もなしに訪れた、演奏家としての実績もない男を、追い返すでもなくたった一曲弾かせ、それもすべて聴き終わる前に「明日から頼むよ」と快く迎え入れてくれた。
追っている者が音楽に近い場所にいるかもしれないと、ただの俺の勘から始めたことだが、できれば無駄骨に終わらないでほしいと思う。










早朝、部下から報告があった。不審人物が目撃されたと。
武器の受け渡しをしていたマフィアの前に、突然、マスクをつけた怪しい男が現れて、その場にいた一人一人を順に見遣ると、「ここにはいない」と訳の分からない言葉を洩らし忽然と姿を消したというのだ。



「それなら、儂も耳にした」



紫煙越しに青空を眺めながら、年老いた男の声を聞いた。
吸いかけの煙草を、いくらか長めに残したまま灰皿に押し付けて、俺はシャツの胸ポケットから携帯電話を取り出すと、さも電話がかかってきたように耳に押し当てた。



「どこでだ?」
「そりゃもう、あちこちさ。マスクの男については、どいつも人伝いで聞いた話と言うから、発端がもう分からん状態でなァ」
「同じような報告は受けている。目撃証言に多数のファミリーの名があがって特定できねえ、とな」
「どうも奴は、たびたび現われては品定めでもするように眺めて消えていくらしいぞ」



死角はゼロ。包囲された状態で逃げ場はなかった。マスクの男は一歩踏み出したと思ったら視界から消えた。本当に綺麗さっぱり。
なにを寝ぼけたこと言ってんだ、なんて台詞は、ベタな冗談を言う奴か、マフィアとは縁のない世界の住人が言うことだろう。大勢に取り囲まれ、退路を断たれた状況下で脱出する手段と言えば何がある。まず第一に、見張りに気付かれることなく一体どうやってそこに潜り込んだ。その目的は。



「俺が知りたいのは、そいつがファウストなのかどうかってことだ」



逃げ道も隠れ場もなく、侵入経路も痕跡も何も残さず消え去るなんて真似は、一般人にはできない。魔術師や奇術師だった、などととんちんかんな答えを出す気もない。
男は、おそらく霧系のリングを使っている。つまり、マスクの男はどこかのファミリーに所属し、もしファウストと同一人物であるならば、バックについている『あの方』がボスということになる。
予測はできることだった。その線を最有力候補としてキャバッローネも俺も動いていた。ただ、マフィア絡みを裏付けるものが出てこなかった。尻尾を隠すのが上手い奴らだと、こうなったら根比べだと不本意ながら長期戦になることをいつだったか覚悟した。



「マスクの男は、リングを持ってる。マフィアは確定だ」
「ファウストと名乗り、クレメンティファミリーの者であるという話じゃ。真偽は分からん。さっきも言ったとおり、発端が不明じゃからなァ」
「クレメンティ?聞かねえ名だな」
「儂も記憶にない名前での、歴史に残っておるかも定かでないわ。最近組織されたのか、あるいはまったくのでたらめかじゃな」
「…こっちで調べる。ボンゴレの蔵なら何か眠ってるかもしれねえし、ネットワークから情報はいくらでも引っ張ってくることはできる」



その情報網に今までffのことが何も引っ掛からなかったのが皮肉な話だ。今度もあまり期待はできそうにない。だが、やってみないことには。



「奴はマフィアに接触を図っておる。なんでも自らを案内人と言っておるそうじゃ」
「案内人?ffのことか…?」
「そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん。マフィアの間では、『選ばれた者だけが、力を手に入れることができる』なんて声も出ているようじゃ。どこまで本当なんだかの」



‘力’イコール‘麻薬’なのか。噂が独り歩きしているだけなのか。最初の目撃から一週間と経っていないのに、これだけ人目に触れていながらそれでも輪郭がぼんやりとしているせいで実体が掴めない。
日が陰ったのか、世界が暗くなった。見上げれば晴れ渡っていた空に、灰色の雲が広がりを見せていた。雨になりそうだ。どことなく道行く人も急ぎ足だ。夕方から雨予報だっただろうか。
雲の流れに目を向けていると、ふむ、と下方から納得とも相槌とも言えない声が上がって、俺は視線を僅かに下へ移した。



「奴らは何をしようとしてんだろうなァ。ボンゴレに喧嘩でも売る気かねェ」
「……上等だ。もしそうなら、俺が潰してやるよ」



携帯電話を閉じて、煙草を咥えた。近頃めっきり吸う本数が減った気がする。



「お前さん、あのピアノの仕事はどうする。奴がクレメンティの者と決まればもう手を引くのか?」
「…いや、まだなんとなく気になるんでな。なんとなく、な……俺の勘だ」



小さな声で零して、壁から背を離す。幾分早い人の流れに、緩やかな歩調で数歩進んだ。



「気を付けな、小僧」



雑踏にまぎれる寸前、背後からそんな言葉がかすかに耳に届いた。
気を付けるさ。10代目の身辺には、常に細心の注意を払っている。たとえば何者かが10代目の暗殺を企てたとしても、10代目に危険が及ぶ前に、すべて始末する。今回のことだってそうだ。
単純な麻薬売買なら、解決にここまで長引くこともなかったはずだ。ほかに意図があるのだとしたら。それが10代目を脅かすものだとしたら、全力で食い止めるだけだ。
ボンゴレの島に入り込んだ奴らの動きが、やっと垣間見えたと思えば、急速に動き始めている。
ミルフィオーレを退けてから、ようやくボンゴレ内も落ち着きを取り戻していたというのに、また訳の分からない連中が姿を見せている。どんなに安全を約束する言葉を並べても、これでは10代目のお心も休まらない。
とにかくこれ以上ボンゴレの島で好き勝手させてたまるか。クレメンティファミリーについて、どれだけの収穫があるかは分からないが、せめてゆっくり煙草を吸う時間を得られるだけの成果はあげたい。
間もなく嵐が来るだろうか。分厚い雲で覆われた空の下、俺は歩く速度を速めた。










「獄寺さんっ…!」



本部に戻ると、部下がバタバタと出迎えにきた。



「なんだ、騒々しい。本部で騒ぐな」
「す、すみません。ですが、あの――――」



俺は10代目の元へ急いだ。廊下ですれ違う部下やほかの隊の構成員が、お疲れさまです、と声をかけてきたが、普段のように返事をしてやることはできなかった。
また新たな犠牲者が出た。ボンゴレと同盟を結ぶファミリーの、最高幹部だった。死因があの麻薬だっただけに、ファミリー内は動揺しているだろう。ボンゴレも多かれ少なかれ衝撃を受けている。
10代目は、どんな気持ちでいらっしゃるのか。
執務室の扉をノックすると、短い返答だけがあった。失礼します、と一声かけて室内を覗けば、正面の窓際に佇む姿を確認することができた。
10代目は、こちらに背を向けて窓の外を眺めていた。



「獄寺くん」
「はい」



強くもなく弱くもない声音で、俺の名を呼んだ。俺のほうが弱弱しい声を出してしまったんじゃないだろうかと思えたほど、その声は落ち着いていた。
太陽の光は雲に遮られ、足元に伸びる影の輪郭は鮮明さを失っている。日当たりの良いこの部屋も、夜を待たずに室内灯で明かりを補う必要性が感じられたが、行動に移すのは憚られた。
微動だにしない背中をじっと見守った。やがて、「俺もね」と、やはりどこまでも静かな声が返ってきて。



「起こりうる事態だと、日頃から頭の片隅に置いていたんだけれどね…」
「10代目」
「とうとう、ボンゴレの同盟ファミリーにも犠牲者が出てしまったよ」
「すみません…!俺の責任です!申し訳ありません!」
「君のせいじゃないよ、獄寺くん。向こうの動きが早かったんだ」



咎められたほうが何倍気が楽だったか分からない。ほんの少しこちらへ首を傾けた時に見えた顔。目をそらしたかった。
瞳が映した瞬間、苦い気持ちがじわりと広がって、俺の脳裏を、雲雀の顔が過ぎった。



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