無知ということが、誰かを傷つけるなんて知らなかった。

二つの、黒曜石のような瞳が、俺を見つめている。
いや、睨んでいるのか、これは。煙草は吸っていないけれど、サボリの現行犯なのは明白だし。今朝の反省文も含めて、応接室に連行されるのは必至。
冗談じゃない。そんな面倒なことからは何が何でも逃れてやる。
それに、こいつとはいい加減ケリをつけなきゃならないと思っていた。どっちが、最強か。



「風紀委員長サマがまさかサボリ、なんてことはねぇよなぁ?」



向かい合う男の、ス、と前に出された足に、すかさず身構えた。
怪我している足なんて気にしていられない。第一、それを理由に手加減してくれるような相手でもない。
俺はいつでもボムを取り出せるように、片手をブレザーの下に滑り込ませた。



「もちろん。僕は、見回りだよ。君と一緒にしないでほしいな」



うそつけ。
どうせ昼寝でもしようと、ぶらりとやってきたんだろう。以前にも俺がサボりにきたら先客としてすでにきていた、なんてこともしばしばあった。
一体いつ授業を受けているのかと訊きたい。
近すぎず、遠すぎずの位置で、雲雀は止まった。その立ち姿を見て、ふと気付く。
そう言えば、朝会った時は頭から抜けていたけれど、俺の中での雲雀の記憶は、骸に捕らえられボロボロに傷ついた姿だ。
それでもあのアニマル野郎とヨーヨー野郎を簡単に倒して、俺に肩を貸してくれたんだけど。傷を負っててあれだけの強さと力なのだから、鋼鉄の肉体かと思った。けれど、あちこち殴打の跡の痣だらけで、出血もしていたし、痛みがなかったわけがない。
目の前にいる雲雀は、この時よりもさらに研ぎ澄まされた空気を纏い、洗練された強さを持ち合わせているように思う。何より、生命力に溢れている。
完治にもそれなりの日数を要したはずだけど、今を見るかぎりでは完全復活で。痛々しい痕も呼吸を乱すような苦痛も見えなくて。
こういうのを目の当たりにすると、俺が覚えていることはずいぶん過去のことなんだな、と。
なんだか時間の感覚が狂いそうになって、いまいち勘が掴めない。



「どうしたの?人のことあんまりじろじろ見ないでくれない?」
「あ、いや…ワリ…。お前ほんとに怪我治って、ぴんぴんしてんだな、って思って…」



ぼんやりと雲雀を眺めていたことに、我に返って恥ずかしくなった。
ああちくしょう。記憶にブランクがあるから調子が狂うんだ。
ちょっと一呼吸置こうと視線をはずして、もう一度視線を戻すと、雲雀はほんの少し瞳を伏せて。



「………まあね」



と。そう呟いた。その声が、普段の自信たっぷりなものとは違って聞こえて。俺は何かまずいことを言ったのかと。
気に障るようなことやプライドを傷つけるようなことであれば、「咬み殺す」と襲いかかってきてもおかしくはないし、俺達はいつもそうやって挑発しては喧嘩してきた。
なのに、仕掛けてくる素振りも見せない。どうしたというんだ。
調子が悪い、とか。…ないな。それはない。
さっきまで射殺すんじゃないかってくらいの、鋭い視線を投げかけていたのだから。



「それより君、交通事故で一部とは言え記憶喪失になったんだって?相変わらず間抜けだね」
「んなっ!?なんだとテメェ!」



前言撤回。やっぱりこいつはいつもの雲雀だ。
人を見下した物言い。むかつくヤローだ。今日こそ果たす。ぜってぇ果たす。



「ああそうだ。朝の分と今回の分、合わせて反省文十枚、今日中に持ってきてもらうよ。それから、アクセサリーはこの場で没収」
「うげっ!なななんだよ十枚って!多すぎんだろ!!」
「君の優秀な頭なら楽勝だろう?」
「んな面倒くせぇことに付き合ってられっかよ!」
「知らないね。僕は風紀を乱す奴を取り締まるだけだ。サボっている生徒を捨て置くわけにはいかないし、学校に不必要な物を所持してくるなら回収して当然だろう」
「俺のもんをそうやすやすと取り上げられてたまるかっ」



ギッ、と睨みつけて臨戦態勢をとる。
来るなら来やがれ。俺はヤる気百二十パーセントだった。だけど雲雀は一向に武器を出す気配はなくて。ただ言葉を続けた。



「アクセサリーは禁止。何度も言ってるはずだけど?それに、君の指に嵌まってるそれ。有っても使い物にならないだろう?」



‘それ’。雲雀が言っているのは、ボンゴレリングのことだ。
10代目は何も仰らなかったが、雲雀は俺のことを聞かされてるんだろう。何故こいつが俺に興味を持ったのかは謎だけれど。
守護者としての自覚や責任感てのは天地がひっくり返っても有り得ない。それとも、俺の弱みでも握ろうってのか。
リングを指してくるあたり、俺の記憶のどの部分が抜け落ちているのか知ってはいるようだが、詳しいことまでは聞いていないようだ。匣を使って戦えるような状態じゃないと言いたいのか。
どういうつもりか知らないが、俺を試してんのか。



「…ハッ、みくびんじゃねーぞ、雲雀。俺が炎を燈せないとでも思ってんのか?」
「…燈せるの?」
「たりめーだ」
「…へえ。じゃあ、見せてごらんよ」



抑揚のない声で、証拠を見せろと雲雀は言う。面白がってるのか試してるのか分かりやしない。
よく見てろ。俺のこと、認めさせてやる。
胸の前まで掲げた手。思いを込めるように、炎をイメージすれば、リングから赤々と燃えゆらめく炎。



「どうだ!記憶を失くしても俺の覚悟は変わらねぇんだよ!ま、当然だけどな。さすが俺!!」



雲雀のことだから、素直じゃないにしても、「やるじゃない」とか、「戦う資格はありそうだ」とか、嫌みの一つでも寄越してくると思っていた。
思っていたのだけれど、予想した反応は、返ってこなくて。



「?……ひば、」
「頭の作りが単純だと、ほかもそうなのかな。君はよっぽど沢田やボンゴレとやらに縋りつきたいらしい」
「はあ?何言ってんだ、お前。つーか今、遠回しに俺のこと馬鹿って言ったか!?」
「そう聞こえたかい?察しはいいみたいだね」
「てめぇまた、…おい!?どこ行くんだよ!」



急に背を向けた雲雀に俺は思わず声をかけた。雲雀はぴたりと止まり、おもむろに振り向いて。



「用事を思い出したから戻る」



なんだよ急に。さっきまで風紀がどうのと言っていたのに。通常は大抵こてんぱんに伸していくはずで。拳の一つもまったく飛んでこないなんてことは…。



「いいのかよ、俺をほっといて。取り締まるんじゃなかったのか?」
「なに、そんなに僕と一緒にいたいわけ?」
「違っ…!俺はただっ、…」
「これは貸しだよ。獄寺隼人」
「はあ!?てめぇの都合で勝手に貸しにすんな!」
「悔しかったら早く満足に歩けるようになることだね。じゃあね」
「ちょっと待てっ。おい、こら!雲雀っ!…て、行っちまった…」



信じられない。何もなく立ち去るなんて。
俺の怪我に対する同情か、憐れみか。あいつに借りなんて作りたくもない。というか、これは借りのうちに入るのか。
本当に勝手な奴だ。おかげでこっちは難を逃れたわけだけど、心底喜べないのはどうも納得いかないからだ。
怪我人を労わるような人間でもないだろうに。きっと嘗められてるんだ。
早いとこ怪我を治そう。俺はそう心に誓った。

















放課後、10代目を家までお送りするのは俺の日課となっている。
一緒に教室を出て、話をしながら廊下を歩いて、靴を履きかえ校舎を出る。そこで俺はふと10代目を挟んで逆側を歩く男に気付く。正確には、その存在を視界に入れつつも触れないでいた、というのがしっくりくる。むしろここまで放置していたのが不思議だ。



「おい。なんでてめーがここにいるんだよ」
「ははは、いまさらだな。一緒に帰るためだぜ?」
「なに当然みたいな顔してんだ!てめぇは部活があんだろうがっ」
「しばらくテスト休みなのな」
「ふざけてんのかテメー!テストは何週間も先じゃねーか!」
「そうだな!うん。なんつーの?獄寺のこと心配だしさ」
「なっ、てめっ!なんで俺がてめぇに心配されなきゃならねーんだっ。あれだけ言ったのに凝りねぇ野郎だなあっ」
「分かってるって!冗談なのな。ほら、ツナに何かあったら、怪我してる獄寺一人じゃどうにもならない時があるかもしれないだろ?朝の雲雀の件もあるしさ」



――――雲雀。
一方的に借りを作らされてしまった。ほかにも、俺が失っている記憶の中で、あいつに何か借りを作ってたりするんだろうか。
今度、本人に訊いてみようか。ああでも、俺の記憶がないのを良いことに、嘘を言われるかも。いやいや、雲雀はそんな奴じゃない。
汚い手を使うのは大嫌いだろうから。うん。あいつはそういうタイプだ。
それにしても、昼間のあれはなんだったんだ。本来なら、嬉々としてトンファーを振り回すのに。
何かよく分からないこと言ってたし、態度も多少首を捻るようなところがあって。



「おーい、獄寺?急に別の世界に行くなって。どうかした?なあ、俺も一緒に帰るけど、いいだろ?」
「…なんでもねー。勝手にしろっ」



なんで俺はさっきから雲雀のことばかり考えてるんだ。
だって。
今日のあいつ、どこか変だった。
じろじろ見るなと言ったあとも、リングに炎を燈してみせたあとも。
記憶の欠けた俺にどう接したらいいか分からないとか、そういうんじゃなくて。
うまく答えを見つけ出せない。ただ。
俺が思い描いていた想像とは全然かけ離れていて。ひどく心に残っている。
あの時、一瞬垣間見た雲雀の顔。リングの、炎を見た時の。
辛そうな表情をしていたのは、俺の気のせいだったのだろうか。



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