真っ先に思い浮かぶのは、いつもあの漆黒だった。

「頭の包帯はもうはずしていいぞ。足のギプスはまだだめだ。もうしばらくは安静にしてろ」
「サンキュー、シャマル」



事故から一週間が経った。
最初に入院していた病院にはもう通っていない。二日目に精密検査を終えて、そのまま治療は断った。医者なら間に合ってる。
ガキの頃に専属医だったこともあり、何かと物を言いやすい。女好きだが医者としての腕は確かだ。
野郎は診ないと言いながら、今回ばかりはすんなり承諾してくれた。
怪我は本当にたいしたことないし、格段生活に支障をきたしているわけでもないのに、だ。
俺が記憶障害という厄介な症状を抱えてるだけに、さすがにこの男も様子が気になるらしかった。



「どうだ?何か思い出したことはあるのか?」
「ねえよ。まだ何も。そう簡単に思い出せるかも分かんねぇんだろ?なら、自然と思い出すのを待つだけだ」
「なんだ、お前、記憶を取り戻したいのか」
「俺のことを俺が知らねえってのが気持ち悪いんだよ」
「そうかい。ま、頑張りな」



診察は終わったから出て行けと言わんばかりに、ひらひらと手を振ってくるから、ち、と舌打ちで返した。
言うことはそれだけかよ、と内心不服を述べる。
実はなんだかんだ心配してくれていると思っていたのは俺の勘違いだったか。
包帯をゴミ箱に投げ捨て、跛を引きながら保健室と保健医に別れを告げた。
登校してからホームルームを受けずにシャマルのところへ向かった。今は授業の真っ只中だが、教室に戻る気にはなれない。
もうこのまま帰ってしまおう。10代目にはあとでメールでお詫びを入れておけば、心優しきボスのこと、怪我の具合を案じつつもこちらに気を遣わせない程度の返事が返ってくるに違いない。
俺なんかのことで表情を曇らせるのは心苦しい。



「10代目のためにも、早く足治さねーとな」



まったく歩きにくい足だ。
苦々しく思いながら、上着の内ポケットの煙草に手を伸ばし、校門をくぐった。















俺は町を歩きながら、ここ数日の自分と、さっきシャマルに言った言葉をぼんやりと振り返っていた。
自然と思い出すのを待つだけ。ああは言ったものの、実際は何度も記憶の糸を手繰り寄せようと試みた。
見覚えのある物は。聞き覚えのある音は。なんでもいい。
事故現場にも足を運んでみた。直前のことやその日のことを思い出そうと頭を集中させてみた。
思った以上に、俺は焦っていた。記憶に穴があるというのは、心地良いものではない。それは間違いなかった。
思い出したいんだ。そう思っていても、俺の頭の中は応えてくれなくて。白い靄が邪魔して何も見えない。深く踏み込もうとすればするほど、疼く痛みは激しさを増した。
あんな台詞を言えるようになったのは、俺自身に言い聞かせるためでもあった。
まだ一週間だ。落ち着け。焦らなくていい。まるで慰めのように。
記憶は戻らないかもしれないという恐れではなく。ずっと付き纏って離れない。
どうしてこんなに不安なんだろう。



「よう、獄寺」



突然声をかけられた驚きよりも、あまりにも遠くへ意識を飛ばしすぎたと、とんだ失態に我ながら腹が立った。
目の前の連中は、こんなにも殺気を撒き散らしていたというのに。
近付くまで気配にすら気付かないなんて。
こんなことだから間抜けだの弱いだのと雲雀に言われるんだ。
待てよ。俺、なんで雲雀のことなんか。今はあいつのことはどうだっていいんだ。
状況に対処することを考えろ。



「獄寺、お前、事故に遭ったそうじゃねーか。その足、噂は本当みてえだな」
「だからって、手加減はしねーぜ?ここで会ったのもラッキーな偶然だ。この間の借りを返すぜ!」



誰だよ、こいつら。
この間?いつのことなんだ。ただでさえ自分に対して苛ついているのに、相手がどこの誰だか分からないことで益々苛つく。
相手は四人。通常なら簡単に倒せる人数だ。時間をかけるのも面倒臭い。
さっさと片付けるに限る。懐に手を差し入れれば先方も動いた。
攻撃を展開しようと踏み出そうとしたはいいが、踏ん張りきれずに。
完全に出遅れた。不自由な片足を改めて忌まわしく思う。
突き出される拳を避けるには間に合わない。両腕を交差させて、とりあえず頭と顔をガードした。と、同時だった。
視界を過ぎった黒い影。


雲雀!?


誰かの呻き声と、次々に低く唸る声が聞こえてくる。俺は、庇うように前に現われた男の背中を見上げた。
そいつは最後の一人を弾き飛ばし、くるり、と振り返ると竹刀を肩に担いだ。



「無事か?獄寺」



―――…雲雀じゃ、ない。



「…山、本」
「危なかったのな。こいつら、どこの学校だ?」
「知らねえ。借りは返すとか、ふざけたこと言いやがって。絡んできたんだよ」



こっちは貸した覚えはないんだ。借りだの貸しだの、雲雀みたいなこと言って。
また、雲雀だ。
どうして。
そもそも。なぜ、現われた奴が雲雀だと思ったんだ。



「おい山本、なんでてめえがここにいんだよ。学校はどうした」
「獄寺がなかなか戻ってこないからさ、保健室に見に行ったんだ。そしたらシャマルはとっくに出てったって言うし、おかしいなーと思って。校内にも屋上にもいねぇだろ?そんで、下駄箱見てみたら靴がねえから、そのまま追いかけてきた」
「バカか、テメーは!てめえまでいなくなったら、10代目がもっと心配すんだろーが!」
「大丈夫だぜ!ツナにはちゃんと言ってきた!」
「こっのアホ!野球バカ!!言わなくていいんだよ!つーか、来んな!んなことで10代目のお心を煩わせんじゃねえ!!」



きっと、一瞬でも、雲雀のことを思い出してしまったからだ。
俺は、あいつにだって負けたくないから。
理由なんて、それだけだ。



「獄寺に何もなくて、ほんとによかったのな」



にかっ、と子供のような屈託のない笑顔を向けて山本が言った。
こいつに助けられるのも、俺としては屈辱に近いものがある。けど、無傷で立っていられるのは、紛れもなく山本のおかげで。



「…あー……山本…」
「ん?なんだ?」
「その、…なんだ、あれだ」
「あれ?」
「…た、助けてくれてサンキュ。助かった、ぜ…」



はっきりと音になっていたかは定かじゃない。
礼を言うなんて、俺には不慣れで。加えて、対象者がこいつだ。



「礼はいらねーぜ!何かあったら言ってくれよな。俺、獄寺の力になりたいのな」



ろくに顔も見ずに、口の中でもごもごと呟いただけだったけど、どうやら山本の耳に届いたらしい。
また口元を綻ばせ、うれしそうに無邪気に笑った。
まともな言い方でもなかったのに。たかだか礼の一つで、何がそんなにうれしいんだか。
本当にガキみてぇ。そう思った。



【prev】 【next】 【↑】