優しい声を聞いたのは、ずいぶん昔。埋もれたのは、自分の心。

「なにも教室を移動しなくてもいいと思いませんか、10代目?面倒っスよ」
「あはは。仕方ないよ。設備があるのはあそこだけだから」
「獄寺、次の授業もちゃんと受けるのな!」
「たりめーだ!次は化学の実験だぞ!?10代目に何かあったらどうする!」
「何もないってば。ただの実験だよ?」
「いいえ!分かりません。怪我をされたり、薬品が化学反応を起こして爆発を起こすともかぎりません!10代目を守るのは右腕の役目です!」



休み時間。俺は、次の授業のために移動される10代目に付き添っていた。余計な奴も一名くっついていたが。
化学の実験の話をしながら理科室へ向かって。10代目を先頭に、俺、隣に山本の並びで階段を上がっていた。
10代目が角を曲がる。すると、入れ違いで生徒が飛び出してきて、危うくぶつかりそうになった俺は階段を踏み外してしまった。



「おわ!?」
「獄寺!?」
「えっ、獄寺くん!?」



やべえ、落ちる。自分がどうなるか一瞬で理解できた。
体は後方へ傾いていて。
トン、と背中に軽い衝撃。固いコンクリートの感触や落下による痛みなどではなく。それはまるで、誰かが受け止め支えてくれたような感覚。



「ちょっと、急にぶつかってこないで。こんなところで危ないじゃない」
「は?え…?」



背後から寄越される苦情の台詞に、声が誰のものかということよりも、言葉の内容自体に疑問を覚える。
振り向けば雲雀が無表情に立っていた。










「雲雀じゃねぇか。いつから後ろにいたんだ?全然気付かなかったのな!」



雲雀の声が聞こえた時点で場の雰囲気が変わったというのに、空気なんておかまいなしに普段の調子で山本が話し出す。
そんな山本を、雲雀はちらりと一瞥しただけだった。
周囲の温度が一℃下がった気がする。
野球バカを無視して雲雀は俺に視線を戻した。



「なに睨んでやがんだ」
「ワオ。ご挨拶だね。ほかに言うことがあるだろう?」



つまり、さっきの「ぶつかってこないで」に対する詫びはないのか、と。
それこそこっちは妙だと思っているんだ。詫びるも何も。
こいつは、今…。
俺とぶつかったんじゃなくて、階段から落ちそうになった俺の背中を支えてくれたんじゃないのか。
声に出せないまま頭の中で問いかけを繰り返す。雲雀は変わらず無表情で。



「まあいいよ。今は君達草食動物にかまってる暇はない。先を急ぐから失礼するよ」



黙りこくっている俺を急かすでもなく見ていたけど、口を開こうとした途端そう言って。
やけにあっさりと雲雀は引き下がった。
そうして、俺と山本の間を、するりと擦り抜けて角の向こうへと姿を消した。



「そういやこの先の廊下は応接室に繋がってるのな。ここに雲雀がいても変じゃないか」
「変、て…なんだよ、お前」
「ん?ほら雲雀のことだから、俺らを見かけて獄寺に身だしなみのことでも言いにきたのかと思ってさ。でもそれならもっと早く声かけてもいいかなーって」
「何が言いてえんだよ」
「や、あんなに近付くまで、というか近付いてからも何もないってのがさ、ほかに何か目的でもあったのかと思って。けど、ただ応接室に向かってただけなら別におかしいこともないのな!」



時々、山本は勘なのか知らないが、おかしなことを言う。おかげでこっちまで気になる。
雲雀がここにいた理由。そんなもの、本人が言っていた。
向かう先がたまたま俺達と同じ方向だっただけで。俺に口うるさく言わなかったのも、急ぎの用事があったからで。



「獄寺くん、大丈夫だった?」
「10代目。はい、大丈夫です」



10代目の位置からは陰になって見えなかっただろう。咄嗟のことで、たぶん山本も。
雲雀が、もしかしたら俺を助けてくれたかもしれないなんて。
本当にそうだとしたら、今回のことは貸しにしなくてよかったのか。後ろにいた雲雀になら、俺が階段を踏み外したのだということに気付けたはず。
助けたことをわざわざ隠す必要もないだろう。なのに。
よく、分からない。
やっぱり、その手で俺の背中を支えてくれたと思ったのは俺の勘違いだったのか。
だんだん小さくなっていく雲雀の後ろ姿を、俺はもやもやした気持ちを抱えながら見送った。



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