いつか見た空の碧が、ひどく懐かしかった。

この場所で、もう三度目の鐘の音を聞いた。
三時限目が始まる直前にここへきて、今は四時限目が五分ほど過ぎたくらいだ。
最近、確実に授業をサボることが増えている。教室を抜け出して屋上に来ては煙草吸って昼寝して。
毎回、失くした記憶のことを考えてるわけじゃない。近頃は考え過ぎるのも良くないと、思考を巡らせることを放棄している。
シャマルにも、考えるだけで思い出せるような単純な脳の障害じゃないんだと言われて。焦っても本当に仕方ないと、漸く気長にかまえる気持ちになれた。
だから、サボリの回数が増えたのは、とくに理由という理由はない。
元々、学校の授業もテストも簡単すぎるんだ。教師の話はつまらないし、別に出る必要もないか、なんて。
屋上に足が向くのは、なんとなく、だった。
今日は天気も良いし風も丁度良い。お昼は10代目をここにお誘いしよう。そうと決まれば昼休みまでまたひと眠りするか。
吐き出した煙が空気に溶けていくのを眺めながら、この大空のような彼の人を思い浮かべた。



「君には、まともに授業を受ける日というのはないのかな?」



油断していたせいもあって、背後からの突然の呼びかけに、ぎょっとした。
気配を消して近付くなよな。心の中で舌打ちを一つ。
無視をしたいが、背中を見せてちゃ、いざという時に後れをとる。仮眠の時間がぱあだ、ちくしょう。
内心で文句を零しつつ振り返れば、風に揺れる漆黒が視界に入った。



「…ワオ。嫌な奴に会った、って顔だね」
「実際そうだよ」



今の時間や俺が手に持っている物を見れば、何もなく済ませてくれるわけがない。
せっかく、10代目の喜ぶ顔を脳裏に描いて気分良くしていたのに。



「はっきり言うね。まあ、弱い者ほどよく吠えると言うし、いまの君も似たようなものだけど。ところで、」
「なんだよ」
「僕の前で堂々と煙草を吸うなんて、いい度胸だね」



ほらきた。
顔を合わせれば校則違反だの風紀を乱すだのと、説教され反省文を言い渡される。
少し前まで、こいつには何度か気になる節があったけど、どうやら俺の思い過ごしらしかった。
雲雀の態度には特別変わった様子もなくて。ただ、どういうわけかいずれも武器を持ち出しての攻防戦を繰り広げるには到っていない。
こちらはいつだって準備万端だというのに、雲雀が一度もトンファーをちらつかせないのだ。最初のうちは、珍しいこともあるものだと思ったが、さすがに続くと気味が悪くなってくる。
虎視眈眈としているのか。いい加減そろそろ本領を発揮してくると思うのだけど。それが今なのか。



「煙草は校則違反。その前に、未成年者の喫煙は法律違反だ。大体、君、煙草なんて身体に毒になりこそすれ、いいことは一つもないんだよ?がんとの関係性は君も知ってるだろう?がん細胞に侵されたらどうするつもり?」



へっ?
なんだ?



「若い故に、病気の進行も速かったりするんだ。分かってるの?」



おい。これは雲雀だよな?
あの、好戦的で、負けず嫌いで、二言目には「咬み殺す」って言う、雲雀、だよな?
身体に毒。がんとの関係性。病気の進行も速かったり。だって。なに言いだすんだ。



「…ぷっ、なんだよ、お前。風紀がどうのと言うかと思えば、がんになるとか、健康について説教すんのか?お前が?まさかお前にそんなこと言われるなんてなあ!ははっ」



すごく意外だった。しょっちゅう問題を起こしては風紀委員の手を掻い潜ってる俺なんかに、雲雀がそういうことを言うなんてこれっぽっちも想像してなかった。
それまでの、無愛想で冷淡な印象とのギャップに、警戒心すら吹き飛ぶほど腹抱えて笑った。
今まで見たことのない雲雀の一面を知って、新鮮さを覚えて、雲雀の本質を垣間見た気がした。
笑う俺の目の前には、言葉を呑んで立ち尽くす風紀委員長。
屋上の定位置。頭上には広がる碧い空。
燻る紫煙と。
それから、穏やかにはためく漆黒。
まるで、写真の切り抜きのように見えるそれに、ふと思った。


―――あれ?
前にも、こんなことがあったか…?
雲雀と…。


デジャビュなのか、どこか感じる懐かしさ。
その漠然としたものを確かめたくて、思わずぼんやりとしていた焦点を雲雀に合わせれば、今度は声を呑んだのは俺の方で。
陽光を照り返す滑らかそうな黒髪が、俺を凝視する闇よりも深い黒瞳が、俺の視線だけでなく頭のてっぺんから爪先まで神経という神経すべてを惹きつけて。
すごく綺麗だ。
そう思ったのは、ほとんど無意識。
その単語が頭に浮かんだことに気付いて、なんともばつが悪い気分になった。
相手は男。美しさを感じるなんて。口から出てこなかったのがせめてもの救い。



「……不愉快だよ」



小さく洩らされた一言。
心を読まれたのかと、一瞬、体が硬直した。けれども、すぐに、有り得ない、と。
声に出してはいないのだから、こちらが何を考えているか分かるわけがない。きっと、笑ったことに腹を立てているんだろう。
雲雀は、顰め面をしていた。
だけど、不機嫌な表情は僅かな時間で、給水塔に留まった小鳥が羽ばたいたあとには、雲雀はまた元のポーカーフェイスへ戻っていた。



「…俺を前にして、お前が楽しくなることなんてあんのかよ?」
「……さあ、どうだろうね。自分で考えてみたら?」
「てめえ、また馬鹿にしてんだろっ!?今日という今日は、ただじゃおかねえから、」



言いかけていると、ちょうどタイミングを見計らったように、雲雀の携帯の着信音が鳴った。
この着信音を聞くのは二度目だ。並中の校歌なんてダサいものを、よく好んで使う気になれるとつくづく感心する。
気が抜けるようなそのメロディーに、攻撃態勢に入ろうとした気が殺がれてしまった。
携帯電話の向こうの誰かと、いくつか言葉のやりとりをして、雲雀は電話を切る。そうして、シャツの胸ポケットに携帯をしまうと、俺に視線を戻した。



「用事ができたから僕はもう行くよ。君にはまた貸しができたね」
「貸し!?なんで貸しになるんだ!」
「前回のもなるべく早めに返してほしいな」
「だからっ、てめえはまた勝手にっ!俺はここで借りを作る気はねえんだよ!」



マイペースに雲雀はそんなことを言ってきて、俺は理不尽さにダイナマイトでも一発お見舞いしてやろうかと。



「僕は負傷している人間を相手にするほど暇じゃないんだ。君なんて簡単に咬み殺せるけど、そんな状態じゃあまりにも手応えがなさすぎてつまらないだろう?」



だから今回も貸しにしておくよ。
言いたい放題言って、肩に羽織った学ランを翻す。
制服の上着の内側に差し入れた俺の手は、ダイナマイトを掴んだまま、ピタリと止まっていた。
惚けたように、雲雀が消えた扉の向こうを見つめて。



「…あいつ、この前も今も、見逃してくれた…?」



口では、あんなことを言っていたけれど。
決して表情には、何の色も見せなかったけれど。
ほんの一欠片でも、雲雀の心根の部分を知ったような気がしたから。本当はずっと俺の足の怪我を思い、配慮してくれたんじゃないのかと。そのことに気付いて。
どうしたというんだろう。
煙草にしろ足にしろ雲雀が俺に示してくれた優しさが、うれしいなんて。



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