この感情を教えてくれたのは君だった。

「授業サボって、こんなところで何をしているかと思えば」



最初に話しかけたのは僕。



「また煙草…。君ね、少しは体のこと考えなよ。このままだと君の死因は事件や事故ではなく、八割方、肺ガンだね。若いうちは進行が速いんだよ、分かってる?」



きっと、どちらが先だったかなんて、あの子は覚えてないだろうけどね。
僕は柄にもなく胸を高鳴らせながら声をかけたから、よく記憶に残っているんだ。
屋上で煙草を吸っていたあの子は、急に話しかけられて肩を震わせた。
ゆるゆると振り向いて、まずい相手に見つかったとでも言うような顔を僕に向けた。
校則違反だと反省文を書けと、耳にタコができるほど聞かされた言葉を並べられると思ったんだろう。普段と違う僕の言葉に、意表を突かれたのか口開けてぽかんとして。
それから吹き出して笑った。
なに、お前、今まで一度もそんなこと言ったことねぇのに。まさかお前に健康のこと言われるとは思わなかった。そう言って。
いつも刻まれている眉間の皺を消して、声を上げて無邪気に笑ったんだ。
それだけで僕の心は喜びに震えた。どれだけうれしかったと思う?
あの子が僕の前でこんなに楽しそうに笑う姿を、それまで一度だって見たことなかったんだ。風紀委員に丸一日休みをやってもいいと思えたくらいだったよ。
この笑顔を守りたいと思った。たとえ隣で見られなくても、僕は僕のすべてを懸けて。
あの子を脅かすものがあるのなら全力で排除しよう。
こんな気持ちになれることを、あの子に出会うまで僕は知らなかった。















昨日、放課後の校内を見回っていたら、ピアノの音が聞こえて、もしやと思い音楽室を覗いてみると、案の定、予想していた人物が鍵盤を叩いていた。
ピアノは弾き手が入口に背を向けて座るように配置されていて、人の出入りが見えないせいか、演奏に集中していたからか、獄寺は僕が入室したことに気付かなかった。
弾いていたのは、僕も耳にしたことがある曲。
ショパンのノクターン。
とても綺麗な音色で、うっとりするほどのそれに、僕は聞き入っていた。
獄寺はピアノを奏で続けた。
何かを訴えるように。
まるで、誰かのことを思っているかのように。
せめて表情が見えれば、或いは確かめられたかもしれないけど、獄寺の背中からは何を思いながら弾いているのか、窺い知ることはできなかった。
暫くして、思い出したように鍵盤から手を離して、時計の方を見遣ったから、ああタイムリミットか、と。残念な気分だった。もう少し、獄寺を見ていたかったから。
拍手を送ったら、ずいぶん驚いていた。
ちょっとでも話ができるだろうかと、楽曲の話題を振った。
僕が戦場のピアニストで使われた第二十番が好きだと。でも、切なくなるから嫌だと言えば、それでは好きか嫌いかよく分からない、と眉根を寄せて怪訝な表情をした。
原因が目の前にいるのだから少しおかしくて、僕は小さく笑った。そうして、曖昧に、そうだね、と答えた。
あの曲はね、なんだか悲しくなってくるから、あんまり好きじゃなかったんだよ。だけど、君が弾けばどんな曲でも好きだと思えるんだ。そのことを口には出せなかったけどね。
会話が途切れると、獄寺が、ふと神妙な顔をして僕の名を呼んだ。
何か言いたいことがあるんだろうけど、思い詰めたような瞳で口ごもって。
僕が待っていると、徐々に白い頬が桃色に染まりはじめ、翡翠は潤みだした。
ドキッとしたよ。あんなもの見せられたから、危うく煽られそうになった。



「話が、…話があるんだ。明日の放課後、屋上に来てくんねぇ?…」
「…今じゃだめなの?」



獄寺が絞り出すように言ったのに対し、僕は平静を装って、恐らく沢田を待っていたであろう君が時間がないと分かっていながら、そう訊いた。
獄寺はまるで挙動不審者のようにあたふたして。これから10代目を迎えに行く、明日待ってる、と目も合わせないで僕の返事も聞かず、言うだけ言って音楽室を出ていった。
引き留めたかった。
貸しだ借りだと発せられる言葉のおかげで、僕達は以前に比べ敵意を持った関係はかなり緩和された。こうして自然と会話ができるまでに。
たぶん嫌われてはいないと思う。だけど、だからこそ僕は、獄寺が離れていくのが怖くて、一歩を踏み出せない。
権力も強さも手に入れている僕が、たった一人相手に、こんなに恐怖を覚える。情けない。





ねえ、君は誰を思ってピアノを奏でていたの?





君は知らない。
僕が抱く想いを。
どんなに君の心をこの手に掴みたいと思っているか。
その美しい銀糸に、華奢な体に触れたいか。
君の瞳に、僕は映っているの?
頬を染めたまま立ち去った君が、瞳に焼き付いてるよ。
君が僕を呼んでまで、あると言った話に、僕のほしい答えはあるの?





…ねえ、僕は、期待してもいいの?



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