もう一度、あの笑顔が見たくて。

最後の一段に足をかければ、さっきから張り詰めていた気持ちがさらに強くなった。
あの子は待っているだろうか。手足が、少し硬くなったのが分かる。
ドアノブを回して扉を開けると、夕暮れの橙色の空に浮かぶ痩身が視界に入った。後ろ姿を見ただけで僕は安堵して。ほ、と一つ息を洩らす。
彼の頭上にふわりと漂った白い煙。僕の吐息に合わせて。空気に溶けていく。



「煙草は校則違反だって、何回言えば分かるんだい?」



風紀検査の時と同じように、何事も変わらない声で、僕は来たことを知らせた。
獄寺は、あの日僕が初めて話しかけた時みたいに、びく、と肩を揺らして。ただ今回は恐る恐るという感じではなく、早く確認しなくてはという気持ちがあったらしく、慌てて振り返った。
僕は獄寺に歩み寄って、隣に並んだ。
フェンス越しに下を見下ろせば、グラウンドで部活動をする生徒達。横を通り過ぎていく下校中の生徒がまばらに見えた。



「沢田をほっといていいの?君は彼の右腕なんでしょ」



別に沢田のことなんてどうでもよかったけど。
僕を呼んだのは獄寺で、沢田にはきちんと説明もしてるんだろうけど。
僕に会うために奴の側を離れたのかと思うと、たかがそれだけのことに優越感が湧いてくる。



「今日は、大事な用があったからっ…。10代目には、無事到着なされたか、あとで連絡する」



大事な用というのに心臓が大きく鳴った。同時に、僅かに不安が過ぎった。
ここに辿り着くまで少なからず僕は、獄寺も僕に好意を寄せてくれているのではと、そういう話をしてくれるのではと期待してしまっていた。
もしかしたら僕の見当違いかもしれなかった。そのことに気付いて。



「そう。で、僕に話って何なの?」



僕は興味なさげに返事をした。けれど心は焦りだし、僕を駆り立てていた。とにかく獄寺の話を聞かなくちゃ、と先を促す。



「…あ……あの、な…。えっと…っ」



言い淀んでいるのか、なかなか切り出せないようだった。
瞳はしっかりと僕を捕えているけれど、その奥はひどく不安定な、葛藤しているように揺れている。
視線を斜め下にずらせば、微かに震える指先。堪えるように、ぎゅっと握り込んだ。
赤みが差す端正な顔を見て、昨日の音楽室での光景を思い出した。
獄寺、やっぱり君は。
思わず口元が緩みそうになった。引き寄せて抱きしめたくなった。
…まだだ。まだ、僕の推測に過ぎない。もしくは願望か。
じっと、待つ。獄寺は、空気ばかり洩らし続けている唇を必死に動かした。



「俺っ…俺、お前が好きだっ」



待ち望んだ言葉。
歓喜で胸が満たされる。
獄寺も僕と同じ気持ちでいてくれたことがうれしくてたまらない。
羞恥からか、視線を外した獄寺が耳まで真っ赤にしている。エメラルドの瞳にやや水分を帯びさせて。
プライドの高い獄寺が、告白という行為に至るまでに、如何に悩んだだろうか。この一言を言うために、どれほど勇気を振り絞っただろう。
僕も伝えるから。
君が好きだと。
そうしたら、また笑ってよ。



「獄寺。僕は、」
「好きになってほしいとかじゃねぇんだ!ただ、俺の気持ちを知ってほしかった。ごめん。気持ちワリィよな…」



言葉を遮られた。それはまだいいとして、問題は獄寺の言ったこと。
気持ち悪い?なぜ?なぜ謝るの?
僕は獄寺と両想いだったと知って、こんなにうれしさで胸がいっぱいなのに。気持ち悪いわけない。僕の思いを聞けば、きっと君もそんな風には思わないはずだ。
僕が君を嫌悪していると、君が誤解しているのならば。



「…獄寺。聞いて」
「へ、返事はいいから!俺、大体分かってるし」
「えっ…」



なに言ってるの?分かってるって、何が?
返事はいいなんて、どうして。
僕は君の本当に笑った顔が見たいんだ。なのに、どうしてそんな。
そんなにぎこちなく笑わないでよ。



「そろそろ行くわ!10代目も気になるしな」



掴みかけたものが、すり抜けていく気がした。
背中を向けた獄寺に僕が見たものは、拒絶。
獄寺は僕を見ない。ほんの少し首を傾けるだけ。
引き止めて、こっちの話も聞いてもらわなくちゃいけないのに、無様にも身体が強張って反応できない。



「今日はサンキュ」
「ちょ、ちょっと待ってよ…!」



呼び止めようとした自分の喉からは、今まで聞いたことがないくらい掠れた声が出た。



「じゃあな!」
「獄寺っ…」



呼んだ名は耳に届いてはくれなかった。代わりに重い鉄の塊が、無情な返事をした。
僕達を隔てる扉。
まるで、それ以上踏み込むなと、獄寺が声なき声で訴えているかのようだった。
僕の声から逃げるように獄寺は屋上から姿を消した。
足が縫い付けられたように、僕はその場から動けなくて。
どうして。どうして、どうして。
頭の中でひたすらリピートし続ける。何をも寄せ付けない背中が、何度拭っても瞼に浮かびあがってくる。
思考回路が正常に機能しなくなっているのではないかと思えた。僕が受けたショックは相当なもので。しばらく屋上に立ち尽くしたまま、次の行動に移ることができなかった。















結局、僕が応接室に戻ったのは、それから三、四十分後だった。
部屋に入れば、校舎の見回りを任せておいた草壁がすでに任を終え、報告のために僕を待っていた。
いまだ獄寺のことが離れない頭で、とりあえず耳に入ってくる話を半分聞いていた。



「校内の風紀は保たれています。街を見回りに出た風紀委員からも、とくに変わった様子はないとの連絡が入っています」
「そう」
「はい。ただ、近くで交通事故があったようです」
「ふぅん」
「事故に遭ったのが、どうも並中の生徒らしく、まだ名前などは分かってないのですが、銀色の髪をした男子生徒だったと」



興味はなかった。どうでもよかった。事故なんて起きる時は起きるものだし、避けられない時もある。その程度の気持ちだった。
適当に聞き流したって不思議はなかった。
彼の言葉の端に、先程から思い描いている少年の、あの子の象徴とも言えるものが含まれていなければ。



「…なんて言った?」
「は?」
「事故に遭ったのは誰だって?早く言いなよ」
「は、はい…!」



草壁は僕の鋭い視線と威圧感に息を呑んだ。
いや、どちらかと言うと常に冷静な風紀委員長が、どこか急いている雰囲気があるのを感じ取ったからのように思う。
僅かばかり顔色を変えて、さっきよりも慎重に、前言を繰り返した。





「…並中の生徒で、銀色の髪をした男子生徒だった、と――――」





すり抜けたものは、二度とこの手に戻ってこないような気がした。



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