本当に神様がいるのなら。

俺が山本から連絡を受けたのは、帰宅後、ゲームでもしようと思ってテレビのリモコンに手を伸ばしたらランボに邪魔されて、そのまま夕飯まで相手をさせられている最中だった。
告げられた場所へ向かい、受付の淡いピンクの制服に身を包んだ女性に声をかければ、間を置かず抑えたトーンで会いたい者の居場所を教えてくれた。
ずっと、祈るような気持ちで、彼の顔を思い浮かべていた。
まだ、まだ見えないのか。その姿は。
建物の静謐な空間は緊張感を、長い廊下は焦りをもたらした。



「まだか」



一瞬、己の心の声が音になったのかと思った。
肩の上で、可愛らしい外見に不釣り合いな黒スーツを着込んだ赤ん坊が、小さな舌打ちを零した。
ポーカーフェイスを保っているものの、滅多に物事に動じない彼にしては珍しく、語調や纏っている空気に些か苛立ちを滲ませている。
さっき自分のものかと錯覚した声は、どうやら彼のものだったらしい。
角を曲がったところで瞳に映った景色に、あ、と洩らすと同時に、肩に乗った赤ん坊が飛び降りた。
漸く視界に入った親友は、廊下の壁際に置かれた長椅子に座り、膝の上で両手を組んで一点を見つめたまま、ぼんやりとしていた。



「山本!」
「……ツナ…」
「…獄寺くんは?」
「今は、治療室、に…いる…」
「大、丈夫なの…?」
「…う、ん……」



山本はひどく青ざめて、虚ろな顔でたどたどしく返事をした。
こんな様子を目の当たりにしたら、現場に居合わせた山本が受けたショックがどれほど大きいか改めて知る。
獄寺くんが交通事故に遭ったと聞いて、俺も気が動転したけど、それ以上に山本は電話でもかなりの取り乱しようだった。



「しっかりしねぇか、山本」



俺の隣で静かに控えていたリボーンが、山本の正面に回り、凛とした声で言った。
山本が俯く先にリボーンの真っ直ぐな視線がある。数秒、互いの視線を交わらせると、徐々に山本の瞳に色が戻り出した。



「…小僧」
「獄寺はどんな具合だったんだ?」



リボーンの問いに山本は一呼吸置くと、獄寺は、と口を開いた。



「体の方は、大量の出血もなかったみたいだけど…。…頭、打ったみたいで……」



ゆっくりゆっくりそこまで言うと、額を掌で押さえ、ぐしゃりと顔を歪めた。



「…っ…俺、俺のせいで獄寺は!本当はっ、あそこにいるのは俺だったんだ!!あいつ、俺を助けるために道路に飛び出してきてっ。どうしよう、どうしよう!俺っ…獄寺にもしものことがあったら、俺…っ…俺はっ……何度呼んでも、意識なくて…っ」



山本は溜まっていたものが堰を切ったように捲し立てた。苦しげな表情で。
友人を失うかもしれないという恐怖、自分のせいでという自責の念と後悔が、ありありと見えた。
お前のせいじゃないよ、とかありきたりな慰めの言葉を言ったって、きっと山本を安心させることはできない。
俺自身もこんなに不安で。いつも鬱陶しいぐらいに俺に付きっきりな獄寺くんの姿がここにはないから。
もしかしたら、もう、あの明るく元気な声で「10代目」と呼んでくれることはないのだろうか。そんな馬鹿な。そんなこと…。
有り得ない。あってたまるもんか。
だけど、打ち消してもマイナスの思考ばかりが湧きあがって、足先から震えが生じる。
目の前に腰かける山本が、どうしよう、獄寺、と繰り返し呟く掠れた声が、不気味な静寂の中に響いていた。



「山本落ち着け。獄寺がそう簡単にくたばるわけねぇだろう。いつまでもそんなシけたツラしてんじゃねぇ。ツナ、おめぇもだ」
「リボーン…」
「おめぇはボスなんだからな。それ以上情けねぇツラ見せんなら、今すぐドタマぶち抜くぞ」
「ちょっ、お前なあっ、銃はしまえよっ」



ここがどこか、なんて関係なしに銃口を向ける家庭教師に、慌てて制止をかけた。
お前だって実は少し焦ってたんじゃないの、という言葉は呑み込んでおく。
俺だって、獄寺くんに万一のことがあるなんて思いたくない。大丈夫だって、絶対大丈夫なんだって。
もう何度も頭の中で言い続けて、信じてるんだか言い聞かせてるんだか分からない。けど、俺はもう一度心で強く叫んで、治療室の扉へ目を向けた。
そうしたら、タイミングを見計らったように扉が開いて、思わず息を呑んだ。
奥から白衣を纏った男性が現れて、立ち上がった山本は今にも泣き出しそうな顔だった。
堪らず俺は医師の元へ駆け寄り、一歩間違えば掴みかかって詰め寄るくらいの勢いで。



「先生!獄寺くんはっ、獄寺くんの容体は!?どうなんですか!?」
「命に別状はありませんよ。頭の骨にも異常はないし、脳内の出血も見られません。脳しんとうを起こしてますが、じき目覚めるでしょう」



安心してください、と。
聞いた途端、体の力が抜けてへたり込みそうになった。後ろを振り返ったら、山本が手で顔を覆って、心の底から安堵したような息を吐いて、よかった、と唇を動かした。















病室に移動した獄寺くんは、頭を包帯で巻かれていたけど、規則的な呼吸をしながら眠っていた。
その白皙の面は普段とは違ってほんの少し青白さを窺わせたけど、とにかく命に関わらずに済んだことに俺達はほっとした。
穏やかに眠る彼を見ていると、胸の奥に熱いものがぐっと込み上げてきて、瞼まで熱くなった。



「よう。隼人の様子はどうだ?」



間もなくして、扉の方から聞き覚えのある低音が届いた。
登場の際の呑気な物言いは、予め獄寺くんの状態が悪いものではないと知っていたようだった。



「シャマル!……どうしてシャマルが」
「俺が呼んだんだ」
「リボーンが?」
「まあ、俺は隼人の保護者みてぇなもんだからな」
「ビアンキもこっちに向かってるぞ」



いつの間に連絡したんだろう。
そう言えば、病室を訪れてすぐ、リボーンの姿は見えなかったっけ。家を出る前はビアンキに繋がらないと言ってたけど、どうにか連絡取れたんだな。よかった。
シャマルは獄寺くんを見下ろして「世話かけやがって」と、ぽつりと洩らした。言い方はうんざりといった感じだったけど、獄寺くんを見る目がそれとはひどくかけ離れていて、大きな手は患部を避け、柔らかそうな銀色の髪を優しく撫で続けていた。





獄寺くん。
君を待ってる人がこんなにたくさんいるよ。
だから、早く目を覚まして。

















時計の針が数字の11を回る。
俺はベッドの横のパイプ椅子に座って、うとうとし始めていた。
数時間前に、張りつめていた神経は解れて、売店で買ったおにぎりで簡単に夜食を済ませてからというもの、何回も欠伸を噛み殺していたんだけど。
さすがに日付が変わる頃に近付くと、身体は休息を求めて俺を別の世界へ連れて行こうとしていた。
眠い。でも、獄寺くんが起きるまで、寝ちゃだめだ。
なんとか眠気を吹き飛ばそうと背筋を伸ばして深呼吸を一つ。数回瞬きをしていると、ビアンキに、眠ってていいわよ、と微笑まれた。
首を横に振ってベッドに視線を戻した時、横たわる獄寺くんの指先が微かに動いた。
見間違いじゃない。
俺は慌ててベッドの縁に手を付いて。
山本とビアンキも両脇から覗きこんだ。
長い睫毛が揺れて、うっすらと両眼が開く。一度伏せられて、再びゆっくりと瞼が持ち上げられた。



「…獄寺くん?」
「…じゅ…だいめ?」



獄寺くんは俺をじっと見たあと、確かめるように室内を見回して、納得したのか小さく、は、と息を吐き出した。
部屋にいる人間を順番に見遣り、最後に山本と目を合わせる。



「……なんて顔してんだよ…」
「…っ、獄寺。ごめん、…ごめん俺、」
「てめぇのせいじゃねぇ。いいか。てめぇを助けたんじゃねぇからな。あれはだなぁ、俺もボールを取りに行こうとして、ガードレール飛び越えたら思いのほか勢いがついてて、止まりきれなくてそのまま……」



獄寺くんが山本に罪悪感を持たせまいと、照れを隠しながら言い訳のような弁護をする。途中で、突然ふと怪訝な表情をして黙り込んだ。けれど、またすぐに表情を戻して。



「とにかく、てめぇが気に病むことも、責任を感じることもねぇからな!分かったか!?」



いつもの調子で、言い放ってそっぽを向く。
しょっちゅう見ている光景のはずなのに、なんだかすごく久しぶりに見たような気がして。
当たり前のやりとりが、俺はうれしくて目を細めた。山本をちらりと見上げたら、ちょっぴり瞳を潤ませていた。



「……ああ。ありがと、獄寺」



ずっと、自分の方が痛いという顔をしていた山本が、やっと笑ったから、獄寺くんも笑みを浮かべて。皆も笑ったから、空気が和やかになった。
よかった。ほんとによかった。
二人を見てたらまたしても涙が出そうになって、俺は服の袖で目元を擦った。



「そうだ。獄寺くんが所持してたものは全部持ってきてあるからね」
「ありがとうございます、10代目」
「たぶん無くなってる物はないと思うけど。獄寺くん、アクセサリーたくさん付けてるから」



首を傾けてベッドサイドテーブルの上のアクセサリーを眺める獄寺くんは、やっぱりさっきと同じ、どこか不思議そうな顔で。
10代目、と神妙な顔つきで切り出した。



「…あれも、俺の持ち物なんですよね?」
「え?どれ?」



俺は獄寺くんが指差す方を目で追って、これかなぁ、とブレスレットやネックレスを持ち上げてみせたり、指し示してみせた。
そのたび獄寺くんは頭を振って、違うと言う。



「それです。真ん中の、…指輪です」



まさか、と思った。
獄寺くんの口ぶりから考えられる事態と、よりによって、このリングなのか、という失望にも似た思い。
俺は、恐る恐るそのリングを手に取り、「これ?」と、獄寺くんの前に翳した。

コクリ。

肯定の意味を視認して、俺は、ぐっ、とリングを握りしめた。
だって、獄寺くんが翡翠に映したのは。俺の手の中にある、それは。
紛れもなく、ボンゴレリングだったから。



「獄寺くん、君……記憶が…―――」















それでも、この時は、然程重大な問題ではないと、心のどこかで気楽に考えていた部分があった。
事故直後で記憶が混乱しているだけかもしれないと。獄寺くんのことだから、きっと今度も大丈夫だと。
リングは説明すればいいし、炎の燈し方だって覚悟さえあれば、あとは身体が覚えてるはずだ、なんて。浅はかすぎる考えで。
記憶に刻まれた思いも失われている、ということに気付きもしないで…。
知らなかったんだ。
誰一人。知らなかった。
失われたものが、獄寺くんとあの人にとって、とても大事な、パズルのピースだったなんて。



【prev】 【next】 【↑】