幻になる前に、君をさらいたかった。

応接室に入るなり、座りなよ、と沢田をソファーへ促した。
短く返事をして頷くと、視線を床に這わせたまま僕の向かいのソファーに腰を下ろす。それを見届けて。



「で、あの子のあれは何なの」



沢田を見据え、前置きも回りくどい言い方もなしに、単刀直入に訊く。
僕から放たれる殺気に似た空気に沢田は体を固めたまま、おずおずと顔を上げて漸く僕と目を合わせた。



「君は知ってるんでしょ?」



獄寺の変化を。
僕を守護者だなんて、と。リングを授かったなんて、と。そう言ったあの子を。
事故から空白の五日間、一体何があった?あの子に何が起きた?
分からないことが悔しい。認めたくはないけれど、現状に一番詳しいのはきっと彼だ。



「答えなよ、沢田」



茶色い瞳は僕の視線を受け止め、膝の上で握った拳を一度ぎゅっと握り直すと、ゆっくりと口を開いた。



「…獄寺くんが事故に遭ったこと、雲雀さんならもうご存知ですよね?」
「ああ、知ってるよ」
「見てのとおり、ぴんぴんしてるというか、大きな怪我はほとんどなくて。病院の先生も言ってました。車に撥ねられて、靭帯を損傷しているにしても捻挫程度で済んだのは奇跡に近いって」
「それはそうだろうね」
「最初は意識不明だったし、頭を打ったって聞いて、みんな心配しました。でも、獄寺くんはその日のうちに目を覚まして、俺達すごくほっとしたんです」
「そう。だけど、それが?僕は事故の話を聞きたいんじゃないよ」



知りたいのは、あの子があんなことを言うようになった理由だ。
胸がざわつく。不安が僕を掻き立てる。
わかってます、と答えた沢田が、瞳を伏せて、一拍置いてから言葉を続けた。



「獄寺くんの様子に気になるところを見つけたのは、そのすぐあとです」
「何」
「車に撥ねられたのは山本のせいじゃないと、話している途中で獄寺くんは一瞬眉をひそめました。どうしたのかなって思ったけど、そのまま何でもないように話をしていたから、俺も流したんです。でも、それだけじゃなくて。それから、」



目の前の小柄な少年が、言葉を紡ぎ出すたびに、血流が速度を増す。手の平からじんわりと汗が滲んでくる。今にも全身から汗が噴き出しそうな不快感。
本能が、やめろと訴える。言うな、と。
これは、どうしたというのだろう。
知りたいと思う反面、聞きたくないと思っている自分がいるのか。
そんなことはない。
いいや。実はその訳に気付いている自分を、見ないふりしてるんじゃないのか。
ふと過ぎった考えを、僕は無理矢理押し込める。



「それから?」
「…獄寺くんの、身に付けていたアクセサリーの中で、一つだけ、『それも俺のですか』って訊いたものがあったんです」
「……ボンゴレリング」
「…はい……」



小さく首を縦に振って。はじめは事故に遭ったショックで混乱しているのかと思った、と。



「このリングだけ、覚えてないのかと思ってました…。だけど、そうじゃなかった。ヴァリアーのことも、十年後の世界へ行ったことも、獄寺くんは忘れてしまっていたんです!」



――――記憶喪失。
そうだ。本当は、薄々気付いていた。獄寺の話しぶりから。
あれは、記憶が欠落している、と。
沢田の話を総括しても、考えられるのはそれしかない。けれど、腑に落ちない点がいくつかあって。
恐らくそれは、僕を占めるこの得体の知れない不安の根源に違いなかった。
どこからか鳴り出した警鐘は、頭痛のように頭の中にガンガンと響き渡って、僕が核心に触れることを、もう何も聞いてはいけないと、耳を塞ごうとしているようだった。
さっきまでの、汗が噴出しそうな感覚はどうしたのだろう。今はひどく体が冷えているような感じがする。



「…逆向性健忘にしては、自身のことも沢田のことも覚えてるなんて、すごく都合が良すぎるよね。彼はいつ頃からの記憶がないの」



ほんの少し口角を上げて言ってみせたのは、精一杯の虚勢だった。
この胸の内の動揺を、骨の髄から震えが起きそうなのを、必死に隠すための。



「骸の…、黒曜ヘルシーランドから帰ってきてから事故に遭う直前までです」



脳に、直接衝撃を受けたような気分だった。
そんなはずは、と。どうか違ってほしい、と。願っていたことが、打ち砕かれた。
それでも僕は、望みを捨てきれなくて。
もういい、それ以上はよせと警告音は鳴り続けるのに、僕はさらに自分へ追い討ちをかけるように沢田に問う。



「頭を強打したことが原因?」
「分かりません…。シャマルは、頭を打った時に記憶障害を起こしたと考えるのが普通だろうって。…でも、雲雀さんの言うように失くした部分がどこか不自然で。獄寺くんが自分の意志で忘れた可能性もある、と…」



―――ああ…。分かっていたんだ。
ただ認めたくなかっただけで。信じたくなかっただけで。
外傷性に限らず、心因性かもしれないということ。獄寺の場合、後者である可能性が高い。
忘れたかったんだ、獄寺は。
分かっていた。
失った記憶は、僕が考えているそれでなければいい、なんて。どんなに低い確率に縋ったって、真実は覆ることはないんだと。


音が、止んだ。
世界は闇で覆われている。それとも、僕の方が闇に包まれているのか。真っ暗だ。
これを、このすべてを飲み込む暗黒をなんと言う。
ああそうか。これは、…――――絶望、だ。





とても思考が鈍くなった気がする。ほかのことは何も考えられなくて、この空間にいる沢田の存在すら意識から消えかけていた。
草食動物の前で、らしくない姿など晒せないというプライドが、かろうじて僕の焦点を向かい合う後輩に合わせた。
彼は黙り込んだ僕に言いたいことか聞きたいことがあるのだろう。僕の顔色を窺いながら、口を開けたり閉じたりして言葉にするのを躊躇っている。
だけど僕は、何も答える気はない。
沢田は僕と獄寺が犬猿の仲だと思っているだろう。彼らの前で僕達が親しくしているところを見せたことはないから。
僕の気持ちも、たぶん獄寺の気持ちも知らない。知る必要は、ない。



「用は済んだから、もう行っていいよ」



冷淡なまでに告げた退室命令。
声にある種の感情など含まれていなかったはずだ。出したつもりもない。けれども、その琥珀色の双眸に映るものがあったのか、もしくは彼の不思議な直感力が微弱ながらでも僕の心の揺れを感じ取ったのか。戸惑いがちに僕を見る。
僕は、表情も、態度も崩さずに、ただ見つめ返すだけ。
部屋の主に従うのが筋ということや、第一にこの場に漂う雰囲気に耐えかねてだろう、沢田は諦めたように視線を下に落とし、立ち上がると深々と頭を下げた。
応接室から沢田が出て行っても、僕の目線は動かないまま。まるで脱力感に襲われたみたいに微動だにできずに。
暫くしてからやっとソファーに沈めた体を動かせた。
頭の回転も正常になり始めたのだけれど。立ち上がれば、くらり、と眩暈がした。
一歩、二歩、足を送り出す。
髪を掻き上げる動作も歩調も、ずいぶん緩慢だな、なんて他人事のようにどこか客観的に見ている自分がいた。
じわじわと蘇る絶望感。こんなもの、消し去りたい。振り払いたい。そう思った瞬間、耳を裂いた何かが落ちたようなぶつかったような音。
手から腕へと伝わってゆく鈍い痛みに、それが自分で机を叩きつけた音だと知った。
やるせなさやら焦燥感やらがない交ぜになって、腹の底から込み上げる衝動に吐き気がした。



「………ごく、でら…」



単なる記憶障害なんかじゃない。
獄寺が覚えていないのは、特定の事柄。確定された一定の期間の。
脳への損傷もなしに全健忘も見られず、対象となる出来事のみ記憶から消去されている。
人間の脳とは、時に悪い影響を及ぼす記憶を排除することで宿主を守る。
例えば、心のキャパシティーを超えるほどの現実から目を背けたい何かを、データを置き換え、なかったことにする。
それは即ち、宿主にとっては最も有効な防衛機能。
現在の獄寺もこれと同じことが言える。
交通事故で受けた脳へのショックは誘因にすぎない。つまり、忌まわしい出来事や耐えがたい苦痛から逃れようとするために、脳が自己防御システムを作動させたんだ。
自分の意志…忘れたかったということだ。獄寺は。
そして、獄寺が忘れたかったのは、…――――僕との時間だ。










六道の件の後、僕は獄寺のお見舞いに行った。と言っても、そんな大層なものではなくて、単に憎まれ口を叩かれに行っただけだったけど。
けれど、その時から僕達はそこまでいがみ合うこともなく、お互いが単独の時は話しかけるようになって。少しずつ、獄寺の表情も和らいでいった。
屋上で、音楽室で、ここで、僕達の距離は近付いた。そうして、五日前の獄寺からの告白。
その時期と、欠けた記憶の時期が、一致する。
屋上で背を向けたあの子の姿が脳裏にちらつく。
あの時、何がなんでも追いかけて、引き留めて、僕の気持ちを伝えればよかった。
どれだけ悔やんだだろう。
この手を伸ばして捕まえていたら、あんな事故も起こらなかったのに。
そうすれば、あの子を失うこともなかったのか。
結局は、全部、臆病な僕自身が招いた結果だ。










君はそんなに忘れたかったの。僕にくれた言葉、隣にいた時間、何もかも。
君はいつから僕を好きでいてくれたの。
僕への想いも君の中から消えてしまったの。
僕は、どうしたらいいの。
教えてよ、………獄寺。



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