cap.T 【潜入】

ジャン・クローチェ。
それが偽造の身分証明証に記された俺の名だ。
今の俺は、銀髪でもなければ瞳の色も違う。頭には栗色の長めのウィッグをつけ、瞳には茶色のカラーコンタクトをはめて、どこから見ても俺だとは分からない。
写真とまったく同じ。ただし、俺だけ。
クロームにおいては外見に手を加えてはいないし、服装も動きやすさを考慮した普段着のままだ。
おおよそこの場に似つかわしくない格好をしているにも拘らず、ガードマンに止められることなく入場を許されたのは、霧系の特殊なリングを使って幻覚を見せているからだ。
俺も含め周囲の人間には、クロームはパーティードレスに身を纏った姿に見える。
何故そうして俺達が春嵐の会社へ出向いたか。言うまでもなく、任務だ。
俺達がボンゴレファミリーの者であると悟られることなく潜入する必要があった。
個人的にブランドの新作に興味があったわけでも、春嵐のコレクションを一見したかったわけでもない。










春嵐が時の人となったのは、彼のブランドの評判もあるが、“春嵐・ランドルフィという人物”も大きな要素となっている。
何故なら、彼が今までブラウン管はおろか紙面でさえも人前に顔を出したことがないからだ。
まだ若いデザイナーであること、アンティーク好きな男ということ以外、春嵐についての詳細は明かされておらず、彼もブランド側も、その他一切を公開していない。
秘密とされている部分は民衆の好奇心を掻き立て、彼はますます人々の視線を集めた。
春嵐に対し関心を向けている“あらゆる分野”とは、マフィア界も含まれている。
それはボンゴレも例外ではなかった。
ただボンゴレにおいては、春嵐を麻薬の密売に関与する重要参考人として見ている。
マフィアが春嵐に一目置くのは、国外にもおよぶ活動や人脈が何よりの魅力であるからとされているが、本音の部分では麻薬目当てに交流を図りたいだけではないかと俺達は睨んでいる。



「では、クローチェ様、そのお連れ様も、中へどうぞ。ご案内致します。申し遅れましたが、私は春嵐の秘書を務める睡泉です。よろしくお願い致します」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」



睡泉と名乗った女は、会釈をすると扉を開け、優雅に一歩中に進んで道をあけるように脇に控えた。
場内にはざっと見て軽く二百はいる。男女比は九対一と言ったところか。
円卓は線で結べばWを画くように置かれ、どう割り振っているのか、一つのテーブルを十人ほどが囲んでいる。



「本日はアクセサリーやオードトワレなど、お連れ様向けの新作がたくさんございますよ。ゆっくりご覧になってください」
「それは彼女も喜びます」



俺達が会場に入ると女は再び前に出て、俺達に充てられているであろうテーブルへと誘導を始めた。



「最後にはヴィンテージワインもご用意していますから、そちらもぜひ楽しんでいただければ幸いです」
「ありがとうございます。今日はメサイアも初公開なさるとか?」
「ええ。新作発表のあとに時間を設けてあります。ふふ、やはりクローチェ様はブランド物よりもそちらが気になるんですね」
「これは失礼を。音楽や楽器のことになると、つい」
「どうぞお気になさらず。そう言えばクローチェ様はピアノをお弾きになられるとか。奥の檀上にはピアノもあるんですよ?今日はぜひ聴きたいものですわ」



女は前に向けていた顔をほんの少し傾けた。視線の先を辿れば、壇上にグランドピアノが見える。
ベーゼンドルファー。
しかもインペリアルとは、どれだけ金をかければ気がすむんだとつくづく思う。



「私はまだまだ未熟者ですから。お聴かせするほどの腕前ではありません」
「ご謙遜を。音楽一家の生まれですもの。きっと才能がおありですわ。春嵐もそう思っています」
「…彼は出席されるのですか?」
「ええ。後ほど顔を見せます。春嵐はこの日をとても楽しみしていたんですよ」



だろうな。
それにしても、まさか春嵐が姿を見せる予定になっていたとは。可能性としては有りだと思ってはいたが。
このビル内のどこかで準備が整うのを眺めているんだろう。あるいは、すでに会場に入り、客の中に紛れているか…―――。



「私も彼に会えるのが楽しみです」



壇上のピアノを一瞥して、俺は再び前を見据えた。



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